努力っていう表現は、そのひとの段階によって違う

努力や頑張ることは、これからの時代に必要なくなってきます。

でも、私は、努力が必要な時もある、って書いてます。
スピリチュアルでは、努力、頑張ることは、必要ない、って言いますね。
これは本当と思っています。

それは、過程、ステップがあります。

最初の一歩、は努力だったりします。
なんというか、このあたりの表現はむつかしいんだけど。

好きなこと、やりたいことがある、それやることは、努力でも頑張ること、でもなかったりしますね。
私はお金の勉強してた時に、最初は努力、でした。
なぜって、その時間をとる必要がありましたから。

でも、それが、面白くなって来た時、ゲームのようだと感じてきたとき、努力でも、頑張ることでもなくなりました。
ただの、遊びや趣味。

自分と一致している状態で、何か学ぶことは、苦痛が一切ないんですね。軽々とそれがやれてしまう。
本人は遊んでるだけ。はたから見れば、努力、頑張ってること。

ヨガにしても、一緒で。
習うためのお金を捻出することは、努力でした。通いはじめることも。
だけど、通い始めて、習ってるうちに、面白いからいくらでもやるようになったというか。
その、面白い、って思ってるとき、努力でも頑張ってもいない。
でも、はた目から見たら、努力なのね。

だから、他人に努力が必要ですよ、というとき、はた目からみたら、ってことだったりします。
ややこしいわね(笑)。

自分と一致すればするほど、その最初の努力すら、いらなくなるというかな。

自分との一致が、まだ進んでない人が、何かを学んだり習得するとき、努力の部分が大きいのです。
自分との一致が、進めば進むほど、何かを学んだり、習得するとき、努力の部分が減って、楽しいからやる、それだけになります。

自分を知らない、自分との一致がまだ進んでない人に対して使う言葉が「努力してね」なのです。
自分を知っている、自分と一致が進んできた人に対して使う言葉が「努力は必要ないよ」なんです。

表現むつかしいけど、伝わるかなあ?

努力しろ、という人と、努力はいらない、という人がいるのはそのためです。ややこしいけどね(笑)

努力はいらないよ、と表現してしまうと、なんの学びもしたことなくて、人生ボロボロ、な人は、全く理解できないんですね。何もしなくてよいと思ってしまって、変われないというか。その人の段階によって、受け取り方や、理解力が違うので、「努力して」と「努力いらない」の両方が、真実だったりします。受け取る人の段階や、状態で、どの言葉がふさわしいか、が、決まってくる。
そんな、感じです。伝わるかどうか、わかんないけど。なんでもいいけど。
想いよ,届け!

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