私はヨガを長くやっていますので、ちょっと、瞑想の話を書きますね。
瞑想にも、いろんな段階があります。
多くの人は、雑念がわいたらいけないとか、思ってたり。無になることと、思っていたりします。
本来のヨガは、ヒマラヤの奥にいる、行者のもとに、神様の知恵を教えていただくために行きます。
そのとき、ヒマラヤに登るために体を鍛えます。ですので、伝統的なヨガのアサナ(ポーズ)は、かなり激しく筋肉を使うものもあります。
ヨガの師は、弟子に様々なことを伝えてゆくのですが、それは、ひとりひとり、違うのです。
現代の、アメリカナイズされたヨガのように、一斉に同じポーズをするわけではないです。
弟子は、師と会う機会があるとき、師に悩みや、人生の苦しみ、をどうしていいか、尋ねます。そのとき、その人に必要な、瞑想の課題が、与えられます。そこにただ、意識を向けます。師は、弟子にその瞑想で得たことを尋ねます。弟子は、それによって、必要な答えを、自分で知ってゆきます。
悩み苦しみではなく、太陽や、月に瞑想することもあります。
瞑想が、長時間にわたることがあり、その姿勢を安定的に保つために、体を作ってゆくのが、ヨガのアサナ、(ポーズ)体操なのです。ポーズの完成形は、本来のヨガには、ありません。
そして、瞑想が、ただ、深まってゆくとき。
自分と他人は、本来は、同じで、分かれていない、他人も自分の表れなのだと、気づくときがあります。
そして、ただただ、瞑想を続けていると。
私の場合は。
体がなくなるような、感覚です。
月明りのなか、静かな凪の海にいるような。
肉体は、本体ではないことが、わかります。
そのとき、ただ、何もない。満ちている。
私、は、なくて、宇宙に溶けているという感じです。
そのときは、言葉に表現しようとすると、なんだか、ズレて行く感じですが。
肉体は本当は、存在していないというか。
意識はただ、宇宙に広がり行く感じです。
そうして、自分は神様の一部で、その表れだったことに気づく。その時ただ、満ち足りるのです。
実は、人はいろんなものは、いらないのだと、気づけます。
私は満ちている。この思いが広がり行くとき、現実もまた、満ち足りるものになる。
そんな、感じです。
伝わるかどうか、わからないですけど。
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